安積鏑矢明神

原文

八幡太郎義家が、東国の兵を従え、陸奥の豪族、清原一族を追討する命を受けて、この地に来たのは、今を去る八百九十年の昔、寛治年間の桜の咲く四月の頃であったという。

源義家は、田村の賊を平定して、百戦錬磨の武将を従え、安積の賊を討とうとし、逢隈川(阿武隈川)の福原の渡しにさしかかった。福原水神館の館主、渡辺権太夫は家来をつれて、渡しに義家を迎えた。義家はその歓迎を喜び、その賞として白鏑矢を賜わった。それから、水神館を大鏑館とその名を変え、天正末期までその名が残っていたという。

義家は、戦塵をこの地で洗っているとき、里人から、この地に農作物を荒す大蛇がいることを聞き、家来の鎌倉権五郎平景政に、この大蛇の退治を命じた。そのとき景政十六才でも豪胆であったという。

西山に棲み、夜半に乗じてこの地に来る大蛇の道筋に、祈りの壇を築き、雲に乗ってくる大蛇を待ち受けた。すると、一天にわかにかき曇り、嵐が吹くと、その雲に乗り大蛇が来た。景政、祈りを捧げ大蛇に向って、五本の矢を放った。その矢のうちの一本が、大蛇とともに福原の地に落ちたという。

その矢を祀ったのが鏑矢明神であるという。今、安積の地に、大鏑神社、鏑矢明神があるが景政が放った五本の矢が落ちたところだという。

旧記録によると、〈( )は郷土誌による〉

一の矢は竹の内(前田沢)、鏑矢明神、二の矢は姉が島(安子ヶ島)、大鏑神社、三の矢は早田村(早稲原)、大鏑神社、四の矢は福原(福原)、大鏑明神、五の矢は舟津(舟津)、鏑矢明神と記されている。

福原に落ちた大蛇の死骸を埋めたところを蛇壇といい、大蛇が休んだ石を蛇枕石として今に残っている。

なお、福原の村人は、鎌倉権五郎平景政の徳をしのんで、天養元年、御霊宮(現豊景神社)に景政を合祀し、寛保二年九月十一日、神祇管領より正一位の神号を授けられたと伝えられている。

(「ふくやまの伝説と昔ばなし」)伝承地 富久山町福原

郡山市教育委員会『郡山の伝説』より