三把菅

原文

猪苗代湖の上戸山潟港からと、志田浜からと、長瀬川新川崎からと、湖東の浜路港からと、直線を引いて、大崎鼻の沖合二百メートルぐらいの所でぶつかる地点は、湖水の一番深い所で昔から「三把菅」といわれて、舟方たちに恐れられている幽境のような魔の湖である。

ここで難破すると、舟もろとも沈んでしまい、遺体はみつからないといわれている。明治の文明開化になってからも、百駄ン舟が沈没してあとは白波、昭和に入ってからも、小舟やボートなど水泳客が、志田浜あたりから漕ぎ出し、突然起った波にのまれて、水死体はついに発見出来なかった事件が度々あった。

舟方たちは、竜宮の「人身御供」にとられたといっている。湖中水面下の断崖は直下百メートルも落ち込んでいて、その下に竜宮の門が開いているという。

昭和十年ごろ、秋山の会津丸に旅客十人ばかり乗せて、鏡のような湖水をおだやかに走り、やがて三把菅にかかったところ、にわかに得体の知れない不思議な波が立ち起り、船体が木の葉のように大揺れしたと思ったら、甲板に積んであった東京向け輸出米が、左舷より十俵、右舷より七俵が「米身御供」にとられてしまった。汽船だから全速力で魔海を脱出し、旅客には災いなく上戸港へすべり込んで、胸をなでおろしたこともあった。

この湖上には、人間がわからない神霊の縄張りがあって、いがみあっているという。ことに波おだやかな夜舟のときに、神秘的で不思議な事象が現れることがあるため、舟方は常に敬虔な心身で行動しなければならないという。

また、忌のかかっている者が舟に乗っているとあぶない。死忌より産忌の人が湖上にいると祟が恐ろしいと戒しめられていた。

また、竜宮には大きな亀がいて、時々湖上に浮かび四方の浜々へ遊泳することがあるそれを見たと話した人は、次々に死んで行った。三把菅沖で大亀を見たと自慢していた藩州明石生まれの菱潟丸機関士は、日ならずしてメチルアルコールを飲んで他界してしまった。小倉沢浜の波打ち際で、昼休みに山刀砥ぎしていた秋山の若者は、ふと目の前にあった渚の大石が、湖面から消え去っているので「大亀だったなぁ」と思ったら、その夜から寝込み、膵臓ガンとなり、助からなかった。(湖南町 半沢卯右衛門)

 

三把菅方向が曇れば雨が降ると、福楽沢ではいっている。

三把菅とは、福楽沢から見て南西の方向に当るという。その由来は次のように伝えられている。

湖南のある村の村長が、猪苗代湖に釣に出かけたが、一向に釣れない。そこで、村長は、どの位深いか試してみることにした。そこで干菅を持っていって、つないで入れてみると深いこと、一把使ってもまだ届かず、二把目も使ってしまった。だが、まだ届かない。三把目もあと一本というところで、湖の底から

「今、届いたぞ」

と大声が聞えて来たという。

村長がびっくりしていると、空が急に曇り雷鳴がとどろき、滝のような雨が降って来た。村長は雨に打たれ、息も絶えだえにその場に倒れてしまった。家族が心配して探しに出ると、湖の岸で倒れている村長を見つけた。村長は家に運ばれ、手厚い看護で一命を取り止めた。

その後、その場所を三把菅というようになり、その方向が曇れば、必ず雨が降るといい伝えられている。(大槻町 滝田虎男)

郡山市教育委員会『郡山の伝説』より