機織御前と沼ヶ渕

原文

田村町下行合の見渡神社の境内に四基の鳥居がある。そのひとつに行合神社という鳥居があり、これが御前様を祀ったものであるという。

昔、高倉の羽広に弥五郎という人がいた。その子に鄙にはまれな美しい娘があった。その娘は機織がとても上手であった。世話する人がいて福原のある家へ嫁いだが、娘はどういう訳か婚家を嫌って実家に戻って来てしまった。

弥五郎は、娘を家に入れず婚家へ戻るようにさとした。娘は仕方なく家を出たが、どうしても戻りたくない。どうしたものかと思案にあまった。旧三月二十八日のことであった。悲しみを胸に抱いて、一人夜道を赤沼の東のガンジャ坂を通る、大滝根川沿いに阿武隈川の大平の渡しまで来た。ガンジャ坂とは、高倉から赤沼に至る近道で、細い石道の坂である。この道は、両側から木の枝がたれ、所によっては片方が涯となっていて寂しい山道でもある。

昔は旧三月になっても雪が降ることがあった。その夜も小雪で夜中のため舟をこぐ人足もいないし、女手でこぐことも出来ず、沼ヶ渕の傍らにある大石のくぼみに身をよせたが、どうすることも出来ず、持ち物を残し、沼ヶ渕に身を投げてしまったという。

それから数年後、行合の宮司松崎家の先祖が、沼ヶ渕の岸にある大杉の手入れをしていたが、誤って鉈を渕におとしてしまった。これを拾おうとして水中に入ったところ、立派な御殿に行きついた。御殿には人の気配が感じられないが、かすかに機を織る音が聞こえる。宮司は驚き、恐る恐る中に入ってみると、この世の人とは思われぬ絶世の美女が、一心に機を織っていた。

人の気配を感じた美女は

「ここは、貴方がたが来る所ではありません。早くお帰り下さい」

といって、それから機織りに使う糸が巻かれている竹の細いクダを差し出し、

「このシクダを貴方にあげましょう。このシクダは、いくら機を織っても、糸が無くなることはありません。ただし、間違っても一日で糸を使い果たしてはいけません。もし、糸が無くなりそうになったら、また明日使いなさい」

といった。

宮司の女房は、そのシクダで機を織ってみたが、何日たっても糸がなくならない。不思議なものだとおもいながら機を織ったが、ある日、夢中になって機を織り、一日で糸を使い果たしてしまった。そうしたら糸を巻くシクダの芯が、かな蛇になって逃げてしまった。驚いた女房が宮司に話すと、宮司は思い当たるふしがあり、沼ヶ渕まで来て見た。そこには、機織りの美女が哀れにも水死体となって浮いていたという。

宮司は、哀れに思い、渕の東方の高台に、機織御前として祠を建て、祀り供養をした。

現在その祠は残されていないが、人工的な土塁が残されていて、その中央に祠があったのであろう。また、思案にくれて身をよせた大石は残っている。

この機織御前の生家は中田町高倉の羽広の旧家と伝えられる。明治の始め頃まで、その旧家は行合神社の春・秋の祭礼には酒五升を献上していたという。祭礼には、付近の婦人たちが集まり、機織りに使った古くなった道具や、不用になった絹糸や麻糸の端切れや髪の毛などを納めたという。

また、その旧家付近に、明治二十六年、機織御前、または、橋本御前様というお宮を建立し祀った。明治二十八年、龍王御前様と改めたという。現在、お宮は残されており、旧三月二十八日と九月二十八日が祭りである。

(伝承地 田村町下行合:田村町 芳賀祐太郎)

郡山市教育委員会『郡山の伝説』より