信達湖水伝説

福島県福島市

太古、有史以前のことだろう。信達平野は一個渺茫たる湖水であった。四方の山々から落ちる流れは皆落ち合って、漫々たる湖水は貝田の山を打ち越えて東の海に注いだと言われている。信夫山は湖中の島で、昔は吹島と云ったが、それは風の強いところだからその名だったという。

信夫山には羽黒山神社が祀られている。当時風浪の激しい時は、参詣人が湖を渡ることができないために対岸から遥拝して帰ったという。その地を後に伏拝村と名づけた。

古老の云うことに、昔、湖水に一頭の大蛇が棲んでいた。其処へ現われた水熊のために敗北して東方の山を擘いて逃れた。それがために湖水の水が洩れて陸になった、と。

一説には、大蛇を打ち負かして湖を占有した水熊が暴れ回るのに困った民が、東征の帰途の日本武尊に退治を願ったともいう。この際、熊が水底深く隠れ現われなくなったので、舟に勇士と官女を乗せ管弦の楽を奏させ、熊をおびき出して射止めたそうな。

その熊は伏拝村に上って死んだが、三日間雷鳴が鳴り止まなかったという。また一説には、尊が熊の姿を見現わさんために猿跳を切開き湖水の水を落し、そして尊は信夫山の南端から水面を望み、黒岩のあたりから現われ出た熊を射殺したという。(『信達民譚集』)

『日本伝説大系3』(みずうみ書房)より要約

また、要約では省いたが、全体的に地名の由来を語る伝説でもあり、何故内地の盆地に水場の地名が多いのか、を説明する筋にもなっている。仙台街道「越河」の駅名、土船村(「着船」だったという)、「舟生村」、そもそも「福島」、「腰浜」、「五十磯辺」、「名倉」も波打つ波頭をナグラと言ったのだという。この様な地名が分布するのは湖だったからだ、という筋だ。